《風所指向的地方》
Yuling Chang / 張祐齡
OBI DENKEN WEEK 2026
旧山本猪平家|Obi, Miyazaki
《風所指向的地方》
風が指し示す場所
Where the Wind Points
一個地方如何改變一個人的生活?
ひとつの場所は、どのように人の暮らしを変えるのだろうか。
這個問題並不一定發生在搬遷的那一刻。
この問いは、必ずしも引っ越したその瞬間に生まれるものではない。
更多時候,它發生在日常裡:生活的聲音變得不一樣,走路的速度改變了,開始注意每天的天氣、天空的色彩,也開始知道一天之中、日升及日落的時刻。
むしろ、日々の暮らしの中で少しずつ現れてくる。
生活の音が変わり、歩く速度が変わり、毎日の天気や空の色に目を向けるようになる。
そして、一日の中で、日の出や日没がいつ訪れるのかを知るようになる。
張祐齡近年的創作,從這些細微的居住經驗中展開。
張祐齡の近年の制作は、こうしたささやかな居住の経験から始まっている。
從人口密集的城市來到日本,再於各地旅行後、選擇在五島列島生活,環境的改變使原本被日常生活覆蓋的感受,逐漸浮現出來。
當生活從過度充滿轉向空白,最初渴望的安靜也產生了另一面 —— 孤獨。
人口の密集した都市から日本へ渡り、各地を旅した後、五島列島で暮らすことを選んだ。
環境の変化によって、それまで日常の中に覆い隠されていた感覚が、少しずつ浮かび上がってきた。
暮らしが「過剰に満たされた状態」から「余白」へと移っていく中で、最初に求めていた静けさもまた、別の側面を見せ始める。
それは、孤独だった。
然而,這些經驗並沒有被區分成「好的」與「不好的」兩種狀態。
しかし、これらの経験は、「良いもの」と「悪いもの」という二つの状態に分けられるものではない。
相反地,它們共同構成了生活。
むしろ、それらはともに暮らしを形づくっている。
「かった」系列便是在這樣的生活累積中形成。
「かった」シリーズは、そうした日々の積み重ねの中から生まれた。
作品所呈現的五島,不只是自然風景,也不是對地方風土的客觀紀錄,而是生活在一個地方之後,逐漸形成的一種觀看。
海、天空、動物、植物與日常所遇見的事物,在作品中成為一種帶有情感溫度的記憶。
作品に描かれる五島は、単なる自然の風景でも、土地の風土を客観的に記録したものでもない。
それは、ひとつの場所で暮らす時間を重ねることで、少しずつ形成されていった「見ること」のあり方である。
海、空、動物、植物、そして日々の中で出会うさまざまなものが、作品の中で、感情の温度を帯びた記憶となって現れている。
「かった」本身是一個帶有過去時間感的語尾。它像是在事情發生之後回頭說:「原來,那時候是這樣的。」因此,作品裡的幸福並不是被刻意尋找的主題,而是在生活過後才被辨認出來的感受。
「かった」という言葉は、過去の時間を感じさせる語尾である。
それは、出来事が過ぎた後に振り返りながら、「あのときは、こうだったのだ」と語るような響きを持つ。
だからこそ、作品の中にある幸福は、あらかじめ探し求められていたテーマではない。
暮らしを重ねた後になって、初めて気づかれた感覚なのである。
這種對地方的感知,也延續到此次展出的新作。
こうした土地への感覚は、今回展示される新作にも引き継がれている。
《日子向著光》將五島的天空、海與日落同樣以蠟筆留下,並以木條、繩結與障子紙構成如紙燈般的外框。
《日子向著光》は、五島の空、海、そして夕暮れを、同じくクレヨンによって描き出している。
木の棒、結び目のある紐、障子紙によって構成された外枠は、紙灯籠のような形をつくり出す。
作品不再被固定於牆面,而是透過釣魚線懸掛於空間之中,下方延伸出的帶締如同風箏的尾巴,使一幅幅風景離開平面,開始在空間裡飛翔。
作品はもはや壁面に固定されることなく、釣り糸によって空間に吊り下げられる。
下へと伸びる帯締めは、凧の尾のように揺らぎ、一枚一枚の風景は平面から離れ、空間の中で飛翔し始める。
這個形式呼應五島具有代表性的バラモン凧。
この形態は、五島を代表する「バラモン凧」に呼応している。
風箏必須依靠風才能飛翔,但同時又透過牽引它的線與地面保持連結。
這種「飛翔」與「牽引」並存的狀態,成為作品理解生活的一種方式。
穩定且不慌亂的牽引,讓自己對於這個世界的探索,更加自由、明晰。
凧は風の力によって空へと舞い上がる。
しかし同時に、それを引き留める糸によって、地上とのつながりを保ち続けている。
この「飛翔」と「引き留められること」が同時に存在する状態が、暮らしを捉えるためのひとつの視点となっている。
展場中央,一只純白色的バラモン凧被置於最高的位置。
其下懸掛著藝術家於今年初在鹿港龍山寺抽得的第五十首籤詩。
展示空間の中央には、純白のバラモン凧が最も高い位置に置かれている。
その下には、作家が今年の初めに鹿港龍山寺で引いた第五十首の籤詩が吊り下げられている。

籤詩在這裡並非單純的宗教符號,
而是一個回望生命的私人記號。
ここに置かれる籤詩は、単なる宗教的な象徴ではない。
それは、ひとつの人生を振り返るための、個人的な記号である。
籤詩寫著:「五湖四海任君行,高掛蓬帆自把撐,幸得順風隨所至,滿船寶貝喜層層。」
この籤を引いた。そこには、「五湖四海任君行、高掛蓬帆自把撐、幸得順風隨所至、滿船寶貝喜層層」と記されている。
這是一首關於出行與順行的籤。船揚起帆,順著風向前,所到之處皆能有所收穫。對當時尚未出發的我而言,它像是一個關於「可以往遠方走」的回答。
この籤は、旅立ちと順調な道のりを示すものとして読むことができる。帆を高く上げ、風に乗って進めば、行く先々でさまざまなものを得ることができる。まだ出発していなかった当時の私にとって、それは「遠くへ進んでいくことができる」というひとつの答えのように感じられた。
一年之後再回頭看,當時尚未發生的事情,已經成為真實的生活經歷。旅行、創作、取得簽證,以及來到五島之後的生活,都成為這段旅程的一部分。
而「滿船寶貝」對我而言,也不再只是物質上的收穫。那些在旅途中遇見的人、風景、孤獨、創作,以及逐漸理解自己的時間,都是這趟旅程最後帶回來的東西。
因此,這張籤也從一張關於未來的紙,慢慢變成了一個回望過去的座標。
一年後に振り返ってみると、当時はまだ起きていなかったことが、すでに現実の経験となっている。旅行、制作、ビザの取得、そして五島での暮らし。それらすべてが、この旅の一部となった。
そして「滿船寶貝」という言葉も、今では物質的な収穫だけを意味するものではない。旅の中で出会った人々、風景、孤独、制作、そして少しずつ自分自身を理解していった時間。それらもまた、この旅から持ち帰ったものなのだと思う。
だからこそ、この一枚の籤は、未来を予告する紙片から、過ぎてきた時間を振り返るための、ひとつの座標へと変わっていった。
它與風箏形成一條垂直的關係:向上的飛翔,以及向下延伸的牽引。
凧とは、一本の垂直な線によって結ばれている。
上へ向かう飛翔と、下へと伸びる牽引。
而左右兩側的風景,則像是沿著這條方向展開。
その両方が、ひとつの方向をつくっている。
そして左右に広がる風景は、その方向に沿うように展開していく。
如果說《日子向著光》是在晴朗的日子裡觀看自然,《島嶼卷浪》則來自另一種經驗。
もし《日子向著光》が、晴れた日の自然を見つめることから生まれた作品だとすれば、
《島嶼卷浪》は、また別の経験から生まれている。
雨季的大雨使島嶼變得潮濕,也讓人與外界的距離更加明顯。作品以帶有柏樹紋樣的障子紙作為長卷,描繪雨幕中若隱若現的島嶼輪廓。
雨季の大雨は、島を湿らせると同時に、人と外の世界との距離をよりはっきりと感じさせる。
作品では、ヒノキの木目を思わせる文様が施された障子紙を長い巻物として用い、雨の向こうにかすかに浮かび上がる島の輪郭を描いている。
室內的材料承載著室外的景色。
室内にある素材が、屋外の風景を受け止める。
當人暫時無法靠近自然,自然卻透過紙張、窗、建築與記憶繼續存在於生活之中。
人が一時的に自然へ近づくことができなくなったとしても、自然は紙や窓、建築、そして記憶を通して、暮らしの中に存在し続ける。
因此,這兩件新作並非只是「五島風景的作品」。
它們更接近一種關於居住的觀看:當環境改變之後,人如何重新感受時間、距離、孤獨與連結;
又如何從每天反覆出現的景色裡,逐漸辨認出自己的方向。
在這個展覽裡,風景並不只是被觀看的對象。
它們也可能反過來觀看著人。
だからこそ、これら二つの新作は、単なる「五島の風景を描いた作品」ではない。
それは、居住することについてのひとつの見方に近い。
環境が変わったとき、人はどのように時間、距離、孤独、そしてつながりを感じ直すのか。
そして、毎日のように繰り返し現れる風景の中から、どのようにして自分自身の方向を見つけていくのか。
この展覧会において、風景は単に「見られるもの」ではない。
それらもまた、こちらを見つめ返しているのかもしれない。
日落每天出現,卻從不重複;
風箏向天空飛去,卻始終與地面相連;
島嶼看似孤立,卻共同存在於同一片海域。
夕日は毎日現れるが、決して同じではない。
凧は空へ向かって飛んでいくが、決して地上とのつながりを失わない。
島々は離れているように見えても、同じ海の中にともに存在している。
也許,生活的方向並不總是由人自己決定。
有時候,是在一個地方生活得夠久之後,才開始聽見環境正在告訴自己的事情。
もしかすると、暮らしの方向は、いつも自分自身だけで決めるものではないのかもしれない。
ある場所で十分な時間を過ごして初めて、その環境が自分に何を語りかけているのかを、聞き取れるようになることがある。
一個地方真正留下來的,或許不是它的風景,
而是它讓人終於有餘裕,去感覺自己正在成為誰。
ひとつの場所が本当に残していくものは、
その風景そのものではなく、
自分がいま、何者になりつつあるのかを感じるための余白なのかもしれない。
地方沒有拯救一個人。
而是一個人進入一個地方之後,生活的尺度改變了,於是開始看見原本看不見的東西。
場所が人を救うのではない。
ひとりの人がある場所に入り、その場所で暮らすことで、時間や生活の尺度が変わっていく。
その変化の中で、それまで見えていなかったものが、少しずつ見えるようになるのである。
場所、感知與日常生活的重新建構
場所、感覚、そして日常生活の再構築
當生活終於安靜下來,我才開始聽見自己真正需要的是什麼;
而那些由木、紙、光與風景構成的日常,也重新教會了我,什麼叫做「居住」。
暮らしがようやく静かになったとき、私は初めて、自分が
本当に必要としているものに耳を澄ますことができた。
そして、木、紙、光、風景によって形づくられる日々の暮らしが、
「住む」ということが何なのかを、あらためて私に教えてくれた。
本系列作品起源於一段居住環境的轉換:
本シリーズは、ひとつの居住環境の変化から始まっている。
從高度都市化、人口與資訊密度較高的生活環境,移動至日本五島列島較低密度、自然條件直接參與日常生活的島嶼環境。
人口と情報の密度が高い、都市化された環境から日本へ移り、さらに各地を旅した後、私は五島列島という、より低密度で、自然環境が直接的に日常へ関わる島の環境で暮らすことを選んだ。
我將自己投身進相異環境的體驗當中,並不是想將「都市」與「自然」簡化為對立關係,而是探討不同環境如何改變人的感知方式、身體節奏、私密性需求與對日常生活的理解。
作品透過繪畫、木構結構與障子紙,將個人的居住經驗轉譯為可被觀看與感知的空間形式。
我所描繪的並不是單純的風景,而是生活在一個地方之後,逐漸形成的一種觀看方式。
私は異なる環境の中に身を置くことで、「都市」と「自然」を単純な対立関係として捉えるのではなく、それぞれの環境が、人の感覚のあり方、身体のリズム、プライバシーへの欲求、そして日常生活に対する理解をどのように変化させるのかを考えようとしている。
作品では、絵画、木による構造、障子紙を用い、個人的な居住経験を、見ることと感じることのできる空間的なかたちへと翻訳している。
私が描いているのは、単なる風景ではない。
それは、ある場所で暮らす時間を重ねることによって、少しずつ形成されていった「見ること」のあり方である。
曾經以為,我想逃離的是一座城市。
後來才發現,我真正想找回的,是自己感受世界的能力。
かつて私は、逃げ出したいのはひとつの都市なのだと思っていた。
けれど後になって気づいた。
本当に探していたのは、自分自身が世界を感じる力を取り戻すことだった。
五島,時間開始變得可以被“感覺”
五島では、時間が「感じられる」ものになった
在這,我過著與大地同頻的日子,時常與太陽說著早安、晚安。
晨昏交接之時的色彩,就像杯正在緩慢融化的雞尾酒,變化多端、絢爛轉瞬。
ここでは、大地と同じリズムで暮らしているような感覚がある。
太陽に「おはよう」と言い、「おやすみ」と声をかけるように、一日を過ごす。
朝と夕暮れが移り変わる時間の色は、ゆっくりと溶け合っていくカクテルのようで、刻々と表情を変え、鮮やかに、そして一瞬のうちに移ろっていく。
日の出と日没を眺めていると、自分が小さな存在になったように感じる。
看著日升日落,感覺自己變得渺小,同時、也覺得很安心。
因為無論人類的生活發生什麼事情,
太陽仍隨著祂自己的步調,持續前行。
それと同時に、不思議な安心感も覚える。
なぜなら、人間の暮らしがどのような出来事に揺れ動いていても、
太陽は、自らの歩みに従って、ただ静かに進み続けているからだ。
在這的生活,我也將「空間」轉變為一種可選擇性(agency)
ここでの暮らしは、「空間」をひとつの**選択可能性(agency)**へと変えていった
過去的生活經驗中,「減法」是一種主要策略:減少訊息、邀約與外部干擾。
然而,當生活移動至低密度的島嶼環境、將自己放至無人知曉的居住環境當中後,
生命的慣性產生了變化、
これまでの生活において、私にとって「引き算」はひとつの主要な方法だった。
情報を減らし、誘いを減らし、外部から入ってくる刺激を減らす。
しかし、人口密度の低い島の環境へと生活を移し、誰にも知られていない場所に自分自身を置いてみることで、生命の慣性が少しずつ変化していった。
不再只是:我要從生活裡減少什麼?
而是:當生活出現空間後,我要主動選擇讓什麼進入?
問いは、「生活から何を減らすのか?」
というものから、
「生活に空間が生まれたとき、私は何を自分から招き入れたいのか?」
というものへと変わっていった。
この変化が、本シリーズの重要な基盤となっている。
這個轉變成為本系列的重要基礎。空白不再只是缺乏,而開始成為選擇發生的條件。
空白はもはや単なる「欠如」ではなく、選択が生まれるための条件となった。
《日子向著光》
在日本的生活經驗中,「自然」與「室內」並不是截然分開的。
日本での暮らしの中では、「自然」と「室内」は明確に切り分けられていない。
傳統日式住宅使用木材、紙、榻榻米等材料,使室內空間持續保有自然材料的觸覺與氣味;光線也透過障子紙被過濾,形成不同於直接照明的感官經驗,室內與室外之間、也保留了彼此的連結。
伝統的な日本の住宅では、木材、紙、畳などの素材が用いられ、室内にいながらも自然素材の触感や匂いが感じられる。
また、光は障子紙を通して柔らかく濾過され、直接的な照明とは異なる感覚的な経験をつくり出す。
室内と室外のあいだには、完全に断ち切られるのではなく、互いにつながり続ける関係が保たれている。
Pallasmaa* 曾對建築的討論指出,空間並非僅由視覺形式構成。
聲音、觸覺、材料、陰影與周遭感共同形成身體對場所的整體感受;
他甚至將「寧靜」視為建築經驗中重要的感官品質之一。
Juhani Pallasmaa*は建築について、空間は視覚的な形態だけによって構成されるものではないと論じている。
音、触覚、素材、陰影、そして周囲の環境が複合的に作用することで、身体はひとつの場所を総体的に経験する。
また彼は、「静けさ」を建築経験における重要な感覚的質のひとつとして捉えている。
因此,木條、繩結與障子紙進入本系列作品,並不是裝飾性的「日式元素」。
它們來自我的居住經驗本身。
そのため、本シリーズに木の棒、結び目のある紐、障子紙を取り入れることは、装飾的な「日本的要素」を加えることを意味していない。
それらは、私自身の居住経験から生まれた素材である。
作品的材料選擇,試圖保存一種我在此生活的具體感官感受:
即便處於室內,空間仍像大地般,溫柔的包覆、承接著我的身體。
作品における素材の選択は、ここで暮らす中で得た、具体的な身体感覚を残そうとする試みでもある。
たとえ室内にいても、空間が大地のように、私の身体をやさしく包み、受け止めてくれる。
本作以蠟筆記錄五島生活中的景觀。
蠟筆的繪製,讓我回到了不過度思考的玩樂過程。純粹的“玩”,是我終於重拾回的珍貴感受。
その感覚を、作品の中に留めようとしている。
本作では、五島で暮らす中で目にした風景を、クレヨンによって記録している。
クレヨンで描くことは、過剰に考えることから離れ、ただ遊ぶという行為へと戻っていくことでもあった。
純粋に「遊ぶ」という感覚は、ここでの暮らしの中で、私がようやく取り戻すことのできた大切な感覚のひとつである。
作品外部結構選由木條與繩結組成,並使用障子紙形成半透明的平面。其結構參考日本傳統紙燈的製作方式,使作品同時具有「繪畫」與「溫柔包覆的容器」之間的特性。
作品の外部構造は、木の棒と結び目のある紐によって構成され、障子紙によって半透明の平面をつくっている。
その構造は、日本の伝統的な紙灯籠のつくり方を参照している。
そのため作品は、「絵画」と「やさしく身体を包み込む容器」のあいだにあるような性質を持っている。
這種結構並非試圖再現日本傳統工藝,而是回應居住環境如何進入創作材料。
この構造は、日本の伝統工芸を再現しようとするものではない。
むしろ、居住環境そのものが、どのように創作の素材へと入り込んでいくのかを示すものである。
在五島,景觀不只是被觀看的對象。它參與了日常生活。
日出與日落提供時間的變化,海與天空構成生活的視野,而自然條件持續改變身體對一天的感受。
五島では、風景は単に「見るもの」ではない。
それは日常生活に参加している。
日の出と日没は時間の変化を知らせ、海と空は日々の視界をつくり、自然環境は一日の時間を身体がどのように感じるかを絶えず変化させている。
因此,作品中的景觀被理解為一種:
Environmental Record
環境紀錄
而不是單純的風景再現。
そのため、作品における風景は、
Environmental Record
環境の記録
として捉えられている。
単なる風景の再現ではない。
將五島的風景放進如紙燈般的結構裡,也留下了一個簡單的想法:
有些時刻,會在某一段生命裡,像一盞燈一樣。
它帶著你看見,對你的生命而言、真正的想望。
五島の風景を、紙灯籠のような構造の中に置くことで、ひとつの小さな考えも残している。
ある瞬間は、ひとつの人生の中で、灯りのような存在になることがある。
その光が、自分の人生にとって本当に望んでいるものを見せてくれる。
然而,環境的轉換並不只帶來恢復。
しかし、環境の変化がもたらすものは、回復だけではない。
當人口密度降低、社交關係減少、日常資訊被大幅清空後,
另一種經驗也同時出現:孤獨。
人口密度が下がり、人との関係が少なくなり、日常に流れ込む情報が大幅に減ったとき、
同時に、もうひとつの経験が現れてきた。
孤独である。
恢復、獨處與孤立,是不同的經驗。
當一個人終於獲得大量空間後,必須重新學習如何與空間相處。
回復すること、ひとりで過ごすこと、孤立することは、それぞれ異なる経験である。
ひとりの人がようやく大きな空間を手に入れたとき、その空間とどのように共に生きるのかを、あらためて学ばなければならない。
《島嶼卷浪》
本作起源於雨季期間的一次觀看經驗。
本作は、雨季のある一日の観察から始まった。
持續降雨改變了島嶼環境原有的可見性。
雨、海與天空彼此混合,遠方的島嶼逐漸失去細節,只留下模糊的輪廓。
降り続く雨は、島本来の風景の「見え方」を変えていった。
雨、海、空が互いに溶け合い、遠くにある島々は少しずつ細部を失い、ぼんやりとした輪郭だけを残していった。
所有的島,都變成了孤島。
すべての島が、孤島になった。
雨不停地下。
空氣是濕的。房子是濕的。
衣服是濕的。好像所有東西都吸飽了水。
人們也躲進各自的房子裡。情緒也像被濕氣佔據、鬱悶不已。
雨は降り続いている。
空気は湿っている。家も湿っている。
服も湿っている。
まるですべてのものが水を吸い込んでしまったかのようだった。
人々もまた、それぞれの家の中へと身を隠していく。
感情までもが湿気に覆われ、重く、鬱々としていくように感じられた。
每一個人,在此時都像一座被大雨隔離的孤島。
このとき、一人ひとりが、大雨によって隔てられたひとつの孤島のようだった。
有一天,深深覺得自己不能再繼續待在家裡。
於是我開車去了港口。坐在車裡看海。
ある日、もうこれ以上家の中にいることはできない、と強く感じた。
私は車を走らせ、港へ向かった。
そして、車の中から海を眺めた。
雨大到幾乎把世界混在一起。
天空。海。雨。遠方的島。
所有東西都變得模糊。
最後,只剩下島嶼的輪廓。
雨はあまりにも激しく、世界そのものが混ざり合ってしまったようだった。
空。海。雨。遠くの島。
すべてのものがぼやけていく。
最後に残ったのは、
島の輪郭だけだった。
作品以一整卷障子紙作為繪畫載體,將島嶼分布於延展的紙面之中。
作品では、一枚の長い障子紙をそのまま絵画の支持体として用い、その広がる紙面の中に島々を配置している。
島嶼散落在長長的紙面上,如同從雨幕中逐漸浮現。
這種卷軸式的觀看方式,也讓畫面沒有一個固定的中心。
觀看者需要沿著紙面慢慢移動,像是在海上尋找遠方的島嶼。
島々は長く伸びる紙面の上に散らばり、雨の向こうから少しずつ姿を現してくるように見える。
この巻物のような鑑賞形式によって、画面にはひとつの固定された中心が存在しない。
鑑賞者は紙面に沿ってゆっくりと視線を移動しながら、海の上から遠くの島を探すように作品を見ることになる。
選用的障子紙、本身帶有植物紋樣。
它是一種來自「家」的材料,也是日本建築中用來模仿自然光線與自然質感的元素。
我在此障子紙上、使用色鉛筆繪製承載了戶外的島嶼景觀。
使用した障子紙には、植物を思わせる文様があらかじめ施されている。
それは「家」から生まれた素材であり、日本建築において自然の光や質感を室内へ取り込むためにも用いられてきたものである。
私はこの障子紙の上に、色鉛筆を用いて、屋外に広がる島の風景を描いた。
因此,作品形成了一個材料上的交錯:
室內的材料,保存戶外的景觀。
人造的紙面,重新建立與自然的關係。
そこには、ひとつの素材的な交差が生まれている。
室内の素材が、屋外の風景を受け止める。
人工的につくられた紙の面が、もう一度、自然との関係をつくり直す。
這也回應了作品在孤獨期間所提出的問題:
當人暫時無法進入世界時,是否能透過記憶、材料與繪畫,重新建立與環境的連結?
これはまた、孤独の中で生まれたひとつの問いにもつながっている。
人が一時的に世界へ入っていくことができなくなったとき、
記憶や素材、そして絵画を通して、環境とのつながりをもう一度つくることはできるのだろうか。
在無法真正靠近外面的時候,似乎仍然會想辦法,
透過生活裡熟悉的材料、試著確認我與這世界仍然有連結呀
外の世界へ本当に近づくことができないときでも、
人はきっと、暮らしの中にある身近な素材を通して、
それでもなお、自分とこの世界とのつながりを確かめようとする。
本系列從一次居住環境的改變開始。
本シリーズは、ひとつの居住環境の変化から始まった。
我的創作一直以來圍繞在以實際生活的體感,去承接、體驗相異場域的能量,並從中觀看自己、創作,期待著能夠被形塑成何樣貌,享受著這之間的無常變化,也藉此觀看著:
私の創作はこれまで、実際の生活の中で感じた身体感覚を通して、異なる場所のエネルギーを受け止め、体験することをめぐってきた。
その中で自分自身を見つめ、制作し、そこから自分がどのようなかたちへと形づくられていくのかを見つめている。
そして、その間に生まれる予測できない変化そのものを味わいながら、私は問い続けている。
場所如何參與人的形成?
當環境改變,身體如何重新調整?
感官如何重新分配注意力?
生活如何重新建立節奏?
場所は、どのように人の形成に関わるのか。
環境が変わったとき、身体はどのように調整されていくのか。
感覚は、どのように注意を向ける先を変えていくのか。
暮らしは、どのように新しいリズムをつくっていくのか。
人並不是獨立於環境之外而存在。
而藝術,是否能將這些原本無法被直接看見的變化,
轉化為一種可被他人觀看與討論的形式?
人は、環境から独立して存在しているのではない。
そして芸術は、もともとは直接見ることのできないこうした変化を、
他者が見ることができ、語り合うことのできるかたちへと変換することができるのだろうか。
最後記錄的,也許不只是風景。
它記錄的是:
最後に記録されるものは、おそらく単なる風景ではない。
記録されているのは、
一個地方如何進入日常,日常如何改變觀看,
而觀看,又如何慢慢變成作品。
ひとつの場所が日常へ入り込み、
日常が「見ること」を変え、
そして、その「見ること」が少しずつ作品になっていく、その過程である。
我以為自己是在尋找一個可以安靜生活的地方。
後來才發現,我真正尋找的,
是重新感覺自己正在生活。
私は、静かに暮らせる場所を探しているのだと思っていた。
けれど後になって気づいた。
本当に探していたのは、
自分がいま、生きているということを、もう一度感じることだった。
/
*Juhani Pallasmaa《The Eyes of the Skin: Architecture and the Senses》
探討建築如何透過觸覺、聲音、光線與材料構成身體性的空間經驗。Pallasmaa 特別反對將建築只理解為視覺形式,而強調多重感官與身體在場所經驗中的角色。
*Juhani Pallasmaa『The Eyes of the Skin: Architecture and the Senses』
建築が、触覚、音、光、素材などを通して、身体的な空間経験をどのようにつくり出すのかを論じた著作。Pallasmaaは、建築を視覚的な形態だけとして捉えることに批判的な立場をとり、複数の感覚と身体が場所の経験において果たす役割を重視している。
OBI DENKEN WEEK 2026
Yuni Chang / 張祐齡
《日子向著光》
《島嶼卷浪》
旧山本猪平家
Obi, Miyazaki, Japan
2026.10.31 — 11.8
